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留学のアメリカンドリーム

留学体験談

2016.3.2 閲覧数:255

≪アメリカンドリームの代表の吉川です。≫私の転倒満載の留学体験を少しご紹介しましょう。 「④ お前は何もやっちゃいない。戦おうとしたことだって一度も無い。」

 

 

≪お前は何もやっちゃいない。戦おうとしたことだって一度も無い≫
 
 
 弊社の代表のかなり転倒回数の多い半生を、少しご紹介します ④  
 
 
 英語の授業について行けず成績不良で大学から警告書を出され、東海岸の大学の
寮の食事がまずくて好き嫌いをしているうちに「栄養失 調」と診断され、
全米最大のアメリカ陸軍の基地のあるその街は治安が悪く、そして大学の
カフェテリアは白人と黒人の食べる場所がクッ キリと分かれている、
そんな全てが私は嫌いでした。
 
 「何でこんな所に来てしまったんだろう。日本に帰りたい。家族や友人がいる
広島に帰りたい。」アメリカ留学開始から5ヶ月経過、完全なホームシックでした。
 
 もし大学を辞めるなら寮も出なければならないし、学生で無くなれば学生ビザも
失効するので日本に帰国しなければいけません。そのための航空券を買うお金も
日本の家族に送ってもらわなければなりません。
 
 「お前、どうするんだよ・・・」と、考えると夜も満足に眠れません。
学期の切れ目の短い休みのある夜のことでした。夜中に目が覚めて、寮の外に
タバコを吸いに出ました。ルームメイトが寝ている部屋にそのまま戻る気にもならず、
寮の洗面所で顔を洗って鏡を見て驚きました。
 
 そこには青白い顔で哀れみを請うような惨めな表情の自分 の顔が写っていました。
このまま日本に帰っても故郷の広島にはカッコ悪くて帰れない。どうせなら東京か
大阪の都会に行こう。そこでどこかの会社で働かせてもらおう。
「アメリカに住んでいたので英語はできます。」と言おう。
「高校時代は柔道をやってたので体力には自 信があります。」と、明るく言おう。
「そして心機一転、今度こそ前向きに頑張ろう。」
 
 しかし、目の前に写っている惨めな表情の自分が 言います。
「お前にはどうせ無理だよ。最初だけ元気が良くっても都合が悪くなったら
すぐにギブアップしてまた逃げ出すさ。お前はそうやってこれからも逃げ続ける。
俺にはそれがお見通しだ。どこに逃げても俺がずっと着いて行ってやる。」
鏡の向こうから暗い目で見つめる自分に、
「僕はこれから一生こいつに負け犬。卑怯者。」と、呼ばれて生きていくのか、
と思うと、心底ゾッとしました。
 
 「いった い何がいけなかったんだろう?」と、思うと、頬を涙が伝い始めました。
「俺がそんなに悪いことをしたのか?」、それに対して、
「い や。お前はまだ何もやっちゃいない。助かるための努力どころか、
戦おうとした事だって一度も無い。」
 生まれて初めての感覚が芽生えました。
「やってやらあ!このまま踏み潰されてたまるか!」
苦しいことから、カッコ良くないことから逃げ、表面だけを取り繕うことに
精を出していた私が、初めて、カッコ悪くて、全然楽しくないことに
一歩を踏み出してみようと決めました。
 
 翌日、他の留学生やアメリカ人学生に、なるべく英語のハンディを背負わなくて
良さそうな授業を聞いて回り、分厚い教科書を読まなければいけないような授業
の数をなるべく少なくして2学期目の単位登録を終えました。
 
 その日から、英語が聞き取れない授業にもとにかく出席して聞き取れた言葉を
カタカナでもメモを取り、授業からはかなり遅れた教科書を毎日辞書を引きながら
深夜まで読み続け、という日々が始まりました。
 
 そして現実には、「こんなアホらしいことやってられるか!」と、毎日あきらめ、
しばらくして、無言で投げ出したペンを拾ってまた辞書を引く、と言う日々が
続きました。
 
 「もう止めた!」と、思ったら、「止めるけど、今日一日だけやって、
明日止めよう。」と、自分に言い聞かせて教科書を読み続けましたが、
投げ出したペンを拾えない時が来まし た。
 
 中間テストの後でした。自分なりの努力をしたにも関わらず惨憺たる結果、
そもそも授業範囲までまったく追いついていないのですから、テストの問題の
意味すらよく分かりませんでした。
 
 「やっぱり無理だったんだ。そもそも一日の授業で20ページ近く進むのに、
僕は必死に読んだって一晩で7~8ページしか読めてないじゃ ないか!」と、
思ってハタと気がつきました。
「あれ?7~8ページ?ちょっと待てよ。」と、教科書の最初の方を開きました。
 
 毎日一生懸命辞書を片手に教科書を読んで、睡魔に勝てなくなったら、
その日に読んだところに印をつけて数時間眠って授業に出る、という日々
だった のですが、最初の頃は一日に3~4ページしか読めていませんでした。
それが約2ヶ月でほぼ2倍のページを読めるようになっていました。
 
 「伸びてるんだ。これでも先へ進んでいるんだ。カタツムリみたいなスピード
かもしれないけど。」と、思いました。その日からは、
「昨日よりもあともう1ページ先へ!」という目標ができました。
 
 そうして迎えた期末試験の直前、教科書はまだ3割以上手付かずで残っていました。
授業も相変わらずチンプンカンプンでした。せいぜ い時々教授が、「例えば・・・」
と例を話す時に、それが何のことについて話しているのかが何となく想像できる
くらいのレベルでした。
 
 実を言うと自主退学をせずにもう一学期の挑戦を決めた時、私はひとつの逃げ道を
残していました。「やるだけやって、それで も駄目だったら最後の最後で期末試験を
放棄して退学すれば良い。そうすれば成績はつかないはずだから、
『大学の勉強は社会に出ても役 に立たないから、自主退学した。』 と言えば、
勉強についていけなくて退学になったということは、誰にもばれないはずだ。」
と、考えていま した。
 
 やっぱり元々スネオの性格の私です。・・・で、どうしたか?
期末試験直前、試験を受けることにまったく迷いはありませんでし た。
「生まれて初めて最後まで逃げ出さずにやり続けたんだから、
その結果がどうなるか、ちゃんと見届けてやらなければ。」と、
むしろ 爽やかな気持ちすら感じていました。  
 
 4点満点の成績平均点(GPA:Grade Point Average)で2.0を下回ったら
「警告書」、私の先学期の成績は1.56でした。そして出された「Academic Probation」、それを今学期の成績でGPA:2.0以上に引き上げることが出来なければ
退学です。
 
 期末試験では、そこまでに読んだ教科書か ら知っていることを必死に書きました。
そして期末が終って数日後、ポストの中に成績表が送られてきていました。
 
 4点満点の2.0をクリア できていなければここで終わり。祈るような気持ちで
封を開けると、「GPA:2.08」と、書かれていました。
 
 「やった!行ける!あとは これをずっと繰り返せば良いんだ。」わずか、
0.08の差ですから、まさに首の皮一枚の差でしたが、1.56から伸びた、
ということが嬉しく て、初めての努力が結果になったことが嬉しくて、
このまま進めばいつか卒業できるに違いない、という気がしました。  
 
 こうしてノースキャロライナのMethodist Collegeでの1年を終えた私は、
あまりにひどいホームシックのために、「日本と変わらない」 と、言われる
ハワイに転校手続きをとって、常夏の島ハワイ州ホノルルにある小さな大学、
Hawaii Pacific Collegeに転校すべくノースキャロ ライナを後にしました。 
 
 
 
株式会社アメリカンドリーム
代表取締役 吉川浩司 
 
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