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2018.11.20 閲覧数:1,815

333. サッカー元日本代表監督、岡田武史さんによる講演「第7回 国際スポーツサロン」

 私が非常勤講師として授業を持っている広島経済大学には、2002年ワールドカップ

日本招致委員会当時からの直属上司、濱口博行元国際部長がスポーツ経営学科の

教授として毎週東京から通って授業を持っておられます。濱口さんは元電通のサッカー

事業局長で、現在も東アジアサッカー連盟のCFO(財務担当責任者)を務めて、

世界を駆け巡っておられますが、私は当時の肩書のまま「濱口部長」と呼んでいます。

 

 広島経済大学による「国際スポーツサロン」は、濱口部長が石田理事長に提案して

実現したもので、今年で7回目を数えます。第1回目から今回まで、すべて講演者は

濱口部長の友人で世界のスポーツ界で有名な方々が、「ハマの頼みならば」と、

広島までやって来てくださいます。

 

第1回:2012年 エッサー・ガブリエル 国際陸上競技連盟事務総長

第2回:2013年 Sir ボビー・チャールトン卿 サッカー界の世界的英雄

第3回:2014年 マウリツィオ・カザスコ博士 イタリアスポーツ医学会会長

第4回:2015年 マーティン・ヘーゲレ FCバイエルン・ミュンヘン国際局長

第5回:2016年 アンバー・スティール コカ・コーラ グローバル ディレクター

第6回:2017年 ダニエル・ルプフ FIFAワールドカップロシア2018 招致責任者

 

 いずれも世界のスポーツ界で大変著名な方々ですが、その講演内容も素晴らしいもので

私は毎回、濱口部長の指示でこの方々のアテンドと、第2回、第5回、第6回は

冷や汗をかきながら講演部分の通訳(第6回は大学内講演のみを担当)を務めました。

 

 今回は、国際スポーツサロンで初めての日本人講演者でしたので、私は今回は

お客様をやっているだけで良い、という気楽な立場で本番をとても楽しみにしていました。

 

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 招致活動中に日本サッカー協会の長沼健会長付きのアタッシェだった私は、

1995年から日本代表コーチ、そして1997年から日本代表監督となって

日本初のワールドカップ(フランス大会)出場を果たした岡田監督とは

レセプション等の場面で何度かお顔を拝見したことはありますが、

親しくお話しさせて頂いたのは、1996年の日本代表コーチだった頃の一度だけでした。

 

 私はその時のことを鮮明に覚えています。2002年のワールドカップ招致活動の

世界ミッションの一環で、1996年、私達招致委員会は、マレーシアで試合を行う

日本代表チームの激励訪問とアジアサッカー連盟の会長等への表敬を兼ねて

マレーシアで日本代表チームと合流しました。

 

 普段は公式行事で朝から夜まで予定がびっしりなのですが、その日はたまたま

夕食会もなく、そこに知己のある代表チームのトレーナーから、

「吉川さん、たまにはスタッフと一緒にいっぱいやりませんか?」と、

声をかけて頂き、代表が宿泊するホテルのトレーナールームに赴きました。

そこで紹介されたのが、当時、日本代表チームのコーチだった岡田武史さんでした。

 

 初対面でしたが、本当に気さくな人で、関西弁で面白い話を連発し、

代表チームの爆笑エピソードなどを話してくださいました。

私はサッカーに関しては全くの素人なのですが、長沼会長と一緒にいる時に

何度かキング・カズこと三浦知良選手とお会いしたことがあり、毎回のキング・カズ

の対応に大変心惹かれるものがあり、「この人は人を引き付ける素晴らしい人だなあ」

という感想を持っていたので、岡田監督の爆笑エピソードの際に、

「キング・カズって素晴らしい人ですよね!」と、尋ねるとこんな話をされました。

 

 「カズは素晴らしい奴だよ。彼は日本のサッカーに絶対に必要な男だ。

代表としてのプレーもそうだけど、まだまだこれから学ぶことが山積みの

日本のサッカーにとって、『代表選手とはどうあるべきなのか』を、

身をもって教えることができる奴だよ。

 今、Jリーグでもてはやされてる選手が、代表に何度か呼ばれると、

うぬぼれが出たり、アップで手を抜いたりするようになるけど、

カズは絶対にそんなことがない。どんな時も練習には全力で臨むんだよ。

大先輩のカズがそんな姿勢だから、そこで若いのが軽く流してたりすると

『バカ野郎!何をチンタラやってんだ!カズさんが走ってるだろうが!!』

と、先輩から檄が飛び、自然に皆、カズを見習うようになるんだよ。」

 

 それから数か月後、加茂監督が代表監督を辞することになり、

急きょ、岡田武史さんが、日本代表監督の座につくことになりました。

 

 そして1998年ワールドカップフランス大会に初出場を決めた日本チームは

スイスの二ヨンで合宿。6月2日に代表の最終メンバー22名の発表において

岡田監督自らが、「はずれるのはカズ、三浦カズ。」と発表し、

三浦カズ選手は合宿を離れて日本に帰国し、空港での記者会見で、

「気持ちの整理はもうついている。魂は向こうに置いて来た。」

と話しました。

 

 岡田監督との一夜から22年が過ぎ、広島の地で岡田監督と再会することに

なりましたが、私は岡田監督は私のことは覚えていらっしゃらないだろうと

思っていました。今回の国際スポーツサロンでは私の役割は特になかったので

控室にご挨拶に行くことも差し控えていました。

 

 会場に到着して、濱口部長に挨拶しておこうと通路で待っている所に

ちょうど濱口部長と岡田監督が通りかかられました。私は遠慮して道を譲って

横に立っていたら岡田監督と目が遭いました。軽く会釈する私を見て、

岡田監督は、「ああ!!久しぶり!!」と笑顔で歩み寄って握手の手を

差し伸べてくださいました。

 

 「ええ?覚えてらっしゃるんですか?」と、驚く私に、

「もちろんですよ!あの晩以外にもあちこちで会ってるじゃないですか。」

と、笑顔でおっしゃいます。

 

 私は思わぬ嬉しい驚きに心を躍らせながら、岡田監督の講演を聞きました。

それは本当に素晴らしい内容でした。現在、愛媛県今治市に本拠地を置く

FC今治(JFL)のオーナーを務める岡田さんは、経営についても

大変示唆に富むお話をされました。

 

 そんな中、「あれだけ三浦カズ選手を褒めていた岡田監督が、なぜわざわざ

ワールドカップ直前に三浦カズ選手を外して日本に帰国させたのだろう?」

と言うのが私の疑問でした。(報道によると、日本に帰国させたのは

岡田監督の指示ではなく、チームメンバーに気を遣わせないように、と、

三浦カズ選手自身が決断してチームを離れたのだそうです。)

 

 その答えは、私にはわかりません。ただ、講演の中で岡田監督が話された

以下の内容で私は自分の中で説明がついたように感じました。

 

===講演のメモより===

 

監督やコーチの仕事は「決断する」ということです。

様々なデータやその時点のチームのコンディションを元に

決断するのですが、理論では答えが出ません。最後は直感です。

「チームが勝つためにはどっちだ?」と、考えると、

スッと答えが出ます。

 

私は、ある時を境にこれができるようになりました。

加茂さんの後、急きょ代表監督になった私の元へは

脅迫状や、「毒入り」と書かれたお菓子が届き、

パトカーが自宅周辺を毎日巡回するような状況でした。

 

フランスワールドカップの最終予選の前日、

「明日もし勝てなかったら日本に帰れないな。」と、悩んだ後、

私は決心しました。

 

「明日は命がけでやろう。そしてもしダメだったら

僕は日本に帰って皆に謝ろう」

 

あの瞬間から遺伝子にスイッチが入ったような気がします。

あそこから人生が変わりました。

 

ずっと安全な所にいたら遺伝子のスイッチは入りません。

「最初の一歩を踏み出すこと」それがリーダーの役割だと思います。

 

=== メモはここまで ===

 

 サッカーに疎い私には戦術のことは全く分かりませんが、

代表メンバーを人数枠に合わせて選び、3人の選手を外さなければいけなかった時、

全力を尽くして下した決断が、ああだったのかもしれません。

 

 講演の後で催された夕食会にも出席させて頂きました。今回はアテンドの

役目はなく、終了後にホテルにお見送りする必要もありませんでしたので

大人気の岡田監督には、「素晴らしい講演でした。本当に勉強になりました。」

と、ご挨拶だけして私は会場の外に出ました。

 

 22年間の時間のひだが、ピタッと埋まったような気がした数時間でした。

 

アメリカンドリーム

吉川浩司

 

 

 

 

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