2017.2.4 閲覧数:2,058
日本サッカー協会、元会長の岡野俊一郎氏が2月2日にご逝去されました。
===Yahoo news より =====
日本サッカー協会会長として日本と韓国が共同開催した2002年ワールドカップ(W杯)を成功させ、国際オリンピック委員会(IOC)委員も務めた岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)さんが2日、肺がんのため死去した。85歳。葬儀は近親者で営む。
東京都台東区出身。東大でFWとしてプレーし日本代表入り。西ドイツ(当時)留学を経て代表コーチとなり、長沼健監督を支えて1964年東京五輪で8強、68年メキシコ五輪では銅メダル獲得に貢献した。70~71年に代表監督。語学に堪能で、「日本サッカーの父」と呼ばれたドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏の通訳も務めた。
国内外の豊富な人脈を買われ、日本オリンピック委員会(JOC)総務主事、理事などを歴任。日本が80年モスクワ五輪をボイコットした際は柴田勝治委員長を補佐し、JOCが財団法人化された際には中心的な役割を果たした。90年から2011年までIOC委員を務め、98年長野五輪招致などに携わった。
日本サッカー協会副会長を経て98年に会長に就任。史上初の共催となったW杯日韓大会の開催準備、運営に尽力した。サッカー情報番組の草分けとして68年に始まったテレビ東京「三菱ダイヤモンドサッカー」の解説者としても親しまれ、12年には文化功労者に選ばれた。【仁瓶和弥】
==== 出典: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170203-00000062-mai-socc =====
岡野副会長(当時)には、私が1994年から1996年まで「2002年ワールドカップ日本招致委員会」国際部員として主には長沼健日本サッカー協会会長(当時)の随行員として招致活動の世界ミッションに参加していた時に、何度も海外出張にご一緒させて頂きました。
ダンディーで旅慣れた岡野さんはいつもコンパクトな荷物で颯爽としておられ、田舎者の私が、「引っ越しか!」というくらいたくさんの荷物を抱えてアタフタしている様子を見て、「岡野流 海外出張時の洗濯術」を、伝授してくださいました。
招致活動の初めのころ、長沼会長が私にお話してくださいました。
「岡野との最初の出会いは今でいう高校選手権の時だよ。
広島代表だったうちの監督が言うんだ。
『東京の岡野という奴はお前らとはレベルが違う。
右でも左でも蹴れるあいつにボールが渡ったらお前たちではどうしようもない。
唯一の方法は、岡野にボールが回ったらとにかくあいつの足元に滑り込め。』
なんてね。まあ、ひどいもんだよ。私らは監督の指示通り、
岡野にボールが回ったら、とにかくズルズルー、ズルズルーってね。」
岡野さんは笑いながら答えます。
「本当にひどいもんだったよ。パスが来たと思ったら、
足元に次々と滑り込んでくるんだから。
なんだこのインディアンのアパッチみたいな奴らは。
イライラして、結局何もさせてもらえないうちにチームは負けちゃってさ。」
これが始まりでしたが、ライバルであったお二人は、後に日本代表選手として代表チームでチームメートとして活躍され、その後、長沼会長が日本代表チームの監督に、1歳年下の岡野さんはコーチとして世界と戦い、1968年のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得されました。
高校生の頃からの友人のお二人が、50年以上経っても最強コンビとして、史上初のワールドカップの日本開催のために世界を相手に取り組んでおられる姿を間近で見て、招致活動時代の私は、お二人の友情に心から憧れたものでした。
ワールドカップ招致活動の結果は、史上初の日韓共催ということになり、招致活動中に日本サッカー協会の会長として指揮を執られた長沼会長から、岡野さんにバトンが渡り、岡野さんは日本サッカー協会会長として2002年日韓大会の責任者として大会を成功に導かれました。
私が岡野さんと最後にお目にかかったのは、敬愛してやまない長沼会長が、奇しくも岡野さんと同じ肺がんで亡くなられた2008年の長沼会長のご葬儀の場でした。
神式で執り行われた長沼家のご葬儀の最後に、親族代表として岡野さんがご挨拶に立たれました。
「立派な方々が大勢おられる長沼家の親族代表として、
私などがご挨拶するのはおこがましい、と最初はご辞退したのですが、
故人が、
『何かあったら岡野に言え。』と、最後まで言っておられた、
ということを奥様から聞いて・・・」
と、涙で言葉に詰まられました。2002年の本大会が終わっても長沼会長と定期的にお目にかからせて頂き、憧れたお二人のその後のことも伺っていた私は、落涙を禁じえませんでした。
以下の写真は、2002年7月1日、2002年FIFAワールドカップKorea/Japanの決勝の翌日、日本サッカー協会の名誉総裁、高円宮殿下の赤坂御所の殿下邸で催されたプライベートディナーでの一枚です。
(*岡野会長、トルシェ日本代表監督、チョン・ムンジュン韓国サッカー協会会長、ヒディング韓国代表監督)
このわずか数か月後の2002年11月21日、サッカーが大好きで、長沼会長のことを「健さん、健さん」と言ってとても親しくされていた高円宮殿下がご逝去、長沼会長はその葬送の儀において司祭を務められました。
2008年6月2日、長沼会長もご逝去、そして先日岡野俊一郎氏もあちらに旅立たれました。
星のような輝きを放って、男子として憧れだった方々が他界され、こちらは寂しくなりましたが、あちらではまた皆さんが逢い見えておられるのではないかと思います。
謹んで哀悼の意を表します。
お世話になった思い出を心に留めて 吉川浩司