230.サッカー界の世界的ヒーロー、Sir ボビーチャールトンからのメッセージ!
ホームページのソフトを最新版にアップデートすることになり、
それまでに書いてきた1,600ページの記事がすべて消えてしまいました。
その中のひとつ、過去記事ではありますが以下、復活掲載させてください。
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サッカー界の世界的ヒーロー、サー・ボビー・チャールトン卿 (Sir Bobby Charlton,
the Knight of British Empire)が、広島経済大学の招きで、
「国際スポーツサロン」の講師とし て 来日、広島に滞在されました。
サー・ボビーは2002年日本ワールドカップ招致委員会のアドバイザーとして、
日本招致活動に協力され、私も招致活動期間中に何度もお目にかかり、
お話もしていました。国際スポーツサロンを立ち上げた濱口博行教授
(元招致 委員会 国際部長、私のかつての上司です)の依頼で、私は、
今回の来日中サー・ボビーご夫妻のアテンドと、講演の通訳をすることになりました。
今までも、いつもサー・ボビーの穏やかな笑顔と、紳士的な立ち居振る舞いには、
「さすが英国の騎士、Knight の称号を持つ紳士だなあ。」と、感心していましたが、
今回初めてずっとお側付きをしてサー・ボビーの生きる姿勢に深い感銘を受けました。
講演の前日広島に到着したサー・ボビーと講演内容について打ち合わせをしました。
講演では、「サッカーとの出会い、ワールドカップ、日本招致活動と
現在の日本サッ カーについて」などが語られる予定と言うことでしたが、
1958年に起こった「ミュンヘン の悲劇」 と呼ばれる、飛行機事故については、
語られる予定にはなっていませんでした。
この事故は、彼の所属チーム、マンチェスターユナイテッドのチャーター機が
ヨーロピアンカップの試合の帰りにミュンヘンで飛行機事故にあい、
主力メンバー8名の生命が失われ、サー・ボビー自身も座席ベルトを付けたままで
機外に投げ出され、九死に一生を得た、 という大惨事でした。
サー・ボビーはこの事故の精神的ダメージにより、一時はボールも蹴られないような
状態に陥りました。 主力を失ったマンチェスターユナイテッドは低迷、
一時期クラブ閉鎖の危機にまで陥りまし たが、同じくこの事故で生き残った
マット・バスビー監督がサー・ボビーのもとを訪ね、ともに戦う事を促します。
サー・ボビーはそこから不屈の精神で復活を遂げ、その後、1966年 の
ワールドカップイングランド大会では決勝で2得点を挙げるなどの大活躍で
母国を初優勝に導き、さらに1968年、事故から10年目には、あの事故のために
夢と消えた チャンピオンズカップに優勝して、マンチェスターユナイテッドに
初のヨーロッパチャ ンピオンの 栄冠をもたらしました。
イングランドのサッカー界で数々の歴代1位の 記録を持つサー・ボビーは、
幾多の功績によって英国王室から Sir (Knight :騎士)の称号を与えられましたが、
この「ミュンヘンの悲劇」と言われる大惨事からの奇跡の復活こそが、
サー・ボビーをしてサッカー界のみならず「英国の英雄」と称されている要因です。
前日の打ち合わせの中で、サー・ボビーは、「ここ広島は、世界にとって
特別な場所だ。ここでお話しできることを光栄に思う。」と言われました。
広島訪問は2度目ですが、前回は時間が無く、サー・ボビーは平和記念資料館に
足を運ぶ事が出来ませんでした。
私は被爆2世です。海外からのゲストを平和公園にお連れし、1945年8月6日に
広島で起こった14万人もの人々の命を奪った出来事を、多くの人たちに
知ってもらうことが、二度と同じことを繰り返さないために大切なことだ、
と思っている私は、広島への原爆投下と、そこからの市民の復活について、
サー・ボビーご夫妻に詳しくお話をしました。
同席していた濱口教授が、「ヒロシマ の体験はボビーの(濱口教授は親しいので、
サーの敬称はつけません。)体験と似通っている。」 と、 言われました。
それに対してサー・ボビーは、「まったくスケールが違うよ。」と言わ れた後で、
「私のスピーチが終わった後で、時間があるなら会場と質疑応答をしよう。
そこでは、私が話さなかったことについても、どんな質問でも答えたいと思う。」
と、言われました。
このサー・ボビーの一言で、敢えて予定に入れていなかった、「質疑応答」
を行うことになりました。
そして翌日の講演を迎えました。予定通りのお話を終えた後の質疑応答で、
やはり「ミュンヘンの悲劇」への質問が出ました。
「8名もの選手の命が失われ、自分自身も死にかけたあのミュンヘンの悲劇から
いったいどうやって立ち直ったのですか?」
私は、その質問を忠実に訳しました。
事前の濱口教授との打ち合わせで、「サー・ボビーは講演を得意としておらず、
ミュンヘンの悲劇について、講演で言及したことはほとんど無いらしい。」
という話を聞いていました。
サー・ボビーはさすがに答えにくそうに、少し言葉に詰まりながら、
事故前のチームの様子について話し始めました。サー・ボビーには考える時間が
必要なように見えたので、私はあえてサー・ボビーの言葉の合間に
細目に通訳を入れ、なるべくゆっくり訳すようにしました。
サー・ボビーはこの質問への答えをこう結びました。
「もし彼らが生きていたら、何をしたかっただろうか?
私は、彼らがやりたかったであ ろう事を全部代わりに実現しよう、
と、心に決めました。」
会場からの大きな拍手と共に講演が終わりました。
時間が大幅にオーバーしていたのですが、サー・ボビーに握手を求める人の列が
途切れません。そんな中、講演を聞きに来ていた広島の高校のサッカー部が2階席で
行儀よく座って聞いていたので、その彼らをステージに上げて、サー・ボビー と
一緒に記念写真を撮らせてあげようということになりました。
これも予定にはなかった のですが、 サー・ボビーは快く応じ、そればかりか
彼らに対して練習や試合への心構えなどたくさんのアドバイスを行いました。
講演は、翌日、広島経済大学でも行われました。そこでも時間を大幅に過ぎても
学生さん達からの質問に丁寧に答え、「もしこの中に将来プロとしてプレーしたいと
思っている人がいたら、正しい練習をすれば、その夢は必ずかなうよ。」
と、語りかけ ます。
「正しい練習とは、完璧な練習環境を言うのではない。練習は一人ででもできる。
相手が居なければ壁に向かってボールを蹴るんだ。自分で的を決めて、そこに蹴り、
段々と距離を離して、70ヤードの距離からでも的に当てられるようにするんだ。
大切なことは常に集中力を失わないことだ。」と、教えます。
講演終了後にも、そして食事のために街を歩いていても、
あちこちでサー・ボビーは人々に呼び止められ、握手やサインを求められます。
奥様のレディー・チャールトンによると
「どこへ行ってもこうなのよ。私は慣れているから、
いつもこうして少し離れている の。」 と、言われます。
ヨーロッパでは過激なファンも居て、後ろからボールペンで背中をつつかれたり、
スーツにマジックで線を書かれたり、ということもしょっちゅうあるそ うです。
私は レディ・チャールトンとサー・ボビーに、
「世界的なスターとこうして数日間を共にさせてもらっていますが、
僕は一日だけなら、こんなにファンに囲まれる状況に笑顔でいることができます。
でも、毎日だととてもできません。」
と言いました。
これに対してサー・ボビーは、ニッコリ笑ってこう言いました。
「求められる限り、私は応じることにしているんだ。」
ご夫妻のお見送りを終え、帰路につきながら今回の仕事を振り返っている時に、
ハッと気がついたことがあります。質疑応答の時に、サー・ボビーが答えたこと、
「彼らが生きていたらやりたかったであろうことを、
私は全部代わりにやろう、と、 心に決めた。」
世界のあちこちでファンから握手やサインを求められる時、
亡くなったチームメイトのためにも、生き残った自分がそのすべてに応じよう、
と、決めておられるのではないだろうか・・・
「ミュンヘンの悲劇」と言われる大惨事から奇跡の復活を遂げた「英国の英雄」の
心のありようを見せてもらったような気がしました。
講演の最後にサー・ボビーが聴衆に贈られた一言を、ここに記します。
Remember, If you don’t shoot, you don’t score!!
覚えておくことだ。シュートを打たなければ、得点はできない!
Sir Bobby Charlton, the Knight of British Enpire!!
大英帝国の騎士、サー・ボビー・チャールトン卿 との思い出に残る時間でした。
株式会社 アメリカンドリーム
吉川浩司
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